2008年07月01日
日本大学拳法部50周年記念誌
これは、先日癌で亡くなった後輩が亡くなる二ヶ月前に、病床から気合いで送ってくれたメッセージです。
彼の言葉を奥様が代筆してくれたそうです。
記念誌の53ページに記された彼の人柄が伺えます。
これを読み終わった時、私は涙が止まりませんでした。
平成二年卒業 宮崎儀典
私が入部して、一番印象に残っている試合は、二回生の時、大将として出場した「関東新人戦」である。
各校とも1・2年生と練習を積んできて、ようやく自信がついてくる時期である。
その年の優勝候補は、圧倒的に中央大学であった。
中央大学は、当時から関西地区よりセレクションにより選手をとっていた事もあり、選手層も圧倒的な強さを誇っていた。
それに追随して日本大、明治大、立教大、東海大などが追う展開となっていた。
そして試合は始まった。
日大は、予想通りの激戦の中、明治大を破って決勝戦へ進出した。
先鋒は、鎌田晴雄、まだ一回生でありながら社会人の全日本選手権でも準優勝した怪物である。
そして鎌田は、期待通り一勝を挙げる。
次峰は、石川健次、二回生。
彼は、小柄ながら大きい相手に怯まず、相手のふところへ入っていき、面突、胴突を繰り返すスタイルを持っていた。
この決勝は、残念ながら負けてしまった。
中堅、木村陽、二回生は、忠実に日本拳法を実践したと言える。
真っ直ぐ突っ込んで調子のいい時は、そのまま倒してしまうが、正直すぎて返り討ちに合う事もあった。
木村も残念ながら、決勝では敗者となってしまった。
中堅が終わった時点で一勝二敗ムード的にもかなり不利な状態であった。
副将は、高橋勝明、二回生。
彼は178センチと背も高く、更にカモシカの様な足をしており、ハイキックを得意としていた。
そして更にここ一週間の内に、当時OB会長の猪狩元秀先輩より個人指導を受ける事で、右のカウンターを完全に会得し、自信をみなぎらせていた。
そしてその決勝戦を見事に勝利した。
そして私が、ふと我に帰ると、日大応援席は大騒ぎになっており、優勝は完全に私の肩にかかっていた。
(続く)
彼の言葉を奥様が代筆してくれたそうです。
記念誌の53ページに記された彼の人柄が伺えます。
これを読み終わった時、私は涙が止まりませんでした。
平成二年卒業 宮崎儀典
私が入部して、一番印象に残っている試合は、二回生の時、大将として出場した「関東新人戦」である。
各校とも1・2年生と練習を積んできて、ようやく自信がついてくる時期である。
その年の優勝候補は、圧倒的に中央大学であった。
中央大学は、当時から関西地区よりセレクションにより選手をとっていた事もあり、選手層も圧倒的な強さを誇っていた。
それに追随して日本大、明治大、立教大、東海大などが追う展開となっていた。
そして試合は始まった。
日大は、予想通りの激戦の中、明治大を破って決勝戦へ進出した。
先鋒は、鎌田晴雄、まだ一回生でありながら社会人の全日本選手権でも準優勝した怪物である。
そして鎌田は、期待通り一勝を挙げる。
次峰は、石川健次、二回生。
彼は、小柄ながら大きい相手に怯まず、相手のふところへ入っていき、面突、胴突を繰り返すスタイルを持っていた。
この決勝は、残念ながら負けてしまった。
中堅、木村陽、二回生は、忠実に日本拳法を実践したと言える。
真っ直ぐ突っ込んで調子のいい時は、そのまま倒してしまうが、正直すぎて返り討ちに合う事もあった。
木村も残念ながら、決勝では敗者となってしまった。
中堅が終わった時点で一勝二敗ムード的にもかなり不利な状態であった。
副将は、高橋勝明、二回生。
彼は178センチと背も高く、更にカモシカの様な足をしており、ハイキックを得意としていた。
そして更にここ一週間の内に、当時OB会長の猪狩元秀先輩より個人指導を受ける事で、右のカウンターを完全に会得し、自信をみなぎらせていた。
そしてその決勝戦を見事に勝利した。
そして私が、ふと我に帰ると、日大応援席は大騒ぎになっており、優勝は完全に私の肩にかかっていた。
(続く)
Posted by てつがく珈琲 at 10:01│Comments(0)│TrackBack(0)
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